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ドーハの悲劇とは何だったのかなんて誰にも解りはしないけど、無理矢理に理屈をつけて決めつけたり、勝手な理論で分析して断言することはそれほど難しいことではない。 例えば、守備の文化なんていう、わかったような言葉をあつらえて、サッカーそのものではなく国民性という壮大なカラクリ理論でぶったぎるのはどうでしょう? つまりは、弱者の理論で「追い掛ける」のは得意なんだけど、強者の理論的な「逃げ切る」というメンタルはからっきし持ち合わせてないと考えれば、なんとなく理論的に説明できるし錯覚させることができるみたいな。 つまりは「前からプレス守備」するのは得意だけど「守備の文化」はもってなく、かといって「後ろに引いてゾーンを敷いて守る守備」も得意ではなく「バックパスも禁止」みたいな。 一方で、ドーハの悲劇というのは「ありふれた日常生活の延長線」の出来事であるともこじつけることができる。 特別なことでも天然記念物的なものでもない、普通の出来事の象徴こそがドーハの悲劇の正体という考えだ。 もっと言えば、ドーハの悲劇の「悲劇」とは本当の意味での悲劇でなくて、あくまで慣用句的というか「恋人がサンタクロース」的というか、嬉しいだか悲しいだか判らないような言葉であるとも考えることができる。 この考え方は宇都宮氏が言うところの「平和ボケしたアメリカ合衆国の奴隷たちの戯言」であるとも言えるってわけさ。 戦争を知ってる大人たちが、戦争を知らない子供達に与えた壮大なファンタジー? それがドーハの悲劇の正体ってわけなのさ。 まとめると、ドーハの悲劇とは、言わば本当はお祭りなんて予定してなかったんだけど、なんとなく成り行きからお祭りを開催するみたいになってしまって、「こりゃ、盛り上げないとマズイ」って町内会で盛り上げようとしたら、当日に雨降って中止みたいな感じ。って、ちょっと違いますか? 閑話休題。岡ちゃんがドーハでトータルフットボールを否定して、ジャパンフットであることを唱えたとか。そもそも、なんでトータルフットボールという言葉が出てきたのかわかからないが、それと相反する対極的なサッカーという意味合いで「トータルフットボール」という言葉を用いたのでしょうか? そもそもジャパンフットボールというのがどんなものかまったくわからないのだが、それはもしかしてオシムやジーコやトルシエの「海外房サッカー」をさらに進化させたものなのか? それともオシム、ジーコ、トルシエ以前の「フランスワールドカップくらい」の状態に立ち返るという決意表明なのか? トータルを比較に出すところを素直に考えると、その立ち返るポジションは後者すなわち「ドーハの悲劇から四年後」くらいを想定しているんだろうけど、果たして、今そこまで立ち返ることにどれくらいのメリットがあるのだろうか? 少なくとも個人的には、フランスワールドカップ出場時代をさらに飛び越して、ドーハの悲劇時代まで立ち戻らないことを祈るばかりですが、まぁそもそも「ドーハの悲劇」が悲劇でなくてありふれたいつもの日常生活の延長線だと考えるなら戻るもくそもないんですけどね。 多分、明日は状況によって開き直ることを迫られるんでしょうが、帰るべき原点がどこにあるかを考えると限りなく絶望的になるのは私だけなのかしら。 フラットスリーや、ブラジル王道や走ることという哲学的原点に戻るのではなく、もっと奥深く「日本人として生まれてきた」というアイデンティティ的なことろにしかすがれないように感じるのは気のせい? って、そこに戻ることは、思っているほど悪いことじゃないかもしれないけど、私は道徳の授業には今あまり興味はないんですよ。 |
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ちゃんとした布陣を組んで、普遍的な戦術で戦ってくれれば文句言わないんですけどね。あのテスト布陣ひいて内容悪けりゃ文句もでるって。 |
RR 2008/11/19 19:27 |
なにを言っているのかさっぱり解らないのだが・・・。 |
AA 2008/11/20 12:21 |
>RRさんへ |
doroguba 2008/11/29 10:48 |
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