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zoom RSS 「主観性を欠くメディアとサポーター」を読んで、「空気」と「ジャーナリズム」で解く

<<   作成日時 : 2013/01/16 02:58   >>

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このコラムの目的は佐藤氏を擁護することではなく、むしろ彼が図らずも明らかにした真実を指摘することにある。日本のサッカージャーナリズムは瀕死の危機にあるということだ。建前と本音が存在するこの国では、記者会見やインタビューで長々と話がされてもその内容は乏しい。実際に存在する真実について書くのか、できる限り気を悪くする者が少なくなるように書くのか、サッカーライターは二択を迫られることも多い。(中略)その「冷ややかな」ファンが鮮やかな反撃に転じ、佐藤氏を壁の外へと追いやった。だが、それからどうなるのだろうか? この事件が我々に教えてくれたことは、ジャーナリストが大衆を落ち着かせるために臆病な文章で壁を築き、ファンの側では愛するクラブと選手を攻撃から守るため鋼鉄の鎧をつくり上げたとすれば、両者ともに相手に手を届かせて話をすることはできなくなり、どちらかが行き過ぎた場合には袋叩きを免れなくなるということだ。
2013年は壁を取り去る年とならなければいけない。ライターたちは、どこに属していようとも、ジャーナリズムと
は真実を記述することだと思い出すべきだ。たとえそれがリーグやクラブやファンに不都合なことであっても。そしておそらくこちらの方がより重要なことだが、ファンの側では、こういうタイプの言説が出てきたとしても、それは無条件で吊るし上げられるために書かれたものではないと考える必要がある。議論され、異議を唱えられ、あるいは弁護されるために書かれたものだからだ。そうしてページの表裏両面において、考えは変化し、意見は発展していく。メディアとファンの両方が、相手の話を聞くことを覚えなければならない。それこそが、同じスポーツへの愛情を共有する両者が共通の意識を育てていくことに繋がるからだ。
http://www.goal.com/jp/news/4114/%E3%82%AC%E3%82%A4%E3%82%B8%E3%83%B3%EF%BD%93-%E3%82%A2%E3%82%A4/2013/01/15/3672995/%E3%82%AC%E3%82%A4%E3%82%B8%E3%83%B3%EF%BD%93-%E3%82%A2%E3%82%A4%E4%B8%BB%E8%A6%B3%E6%80%A7%E3%82%92%E6%AC%A0%E3%81%8F%E3%83%A1%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%81%A8%E3%82%B5%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%BC?ICID=HP_TS_2

もう、この話題についてはおしまいにしようかなと思っていたんですが、上記のコラムを読んで思うところがあったので書いておきます。「議論され、異議を唱えられ、あるいは弁護されるために書かれたものだから」と書かれているくだりについてです。私もその通りであると思うんですが、今ちょうど読んでいる鴻上尚史氏の『「空気」と「世間」』という本を読むと、次のようなことが書かれております。

アメリカから「ディベート」という方式が日本に入った時、多くの日本人は衝撃を受けました。(中略)自分の意見を180度変えて議論するシステムは日本にはないものでした。日本人は、集団の決定が、まさに「臨在感的把握」によって絶対化することに慣れていたので、同じ人間がどちらの立場も積極的に主張することに、ないか戸惑いを覚えたのです。「世間」は「所与性」、つまり、あらかじめ与えられたもので、運命的に存在しているものだと感じている日本人は、自分の立場を百八十度入れ替えて主張する「ディベート」という方式を、とても異質に感じたのです。(「空気」と「世間」鴻上尚史 P126より )

要は、日本では「ディベートする環境が育ってない」ので、それは「サッカーの議論でも同じじゃん」と言いたいわけですが、どうでしょうか? 最近の若者は「ディベート」の教育を受けているのかわかりませんが、私自信は「ディベート」をちゃんと教わった記憶はありません。私の周りにも、いないように感じます。なので「ディベート=戸惑い=異質」論はなんとなく同意するんですが、それってTwitterやブログなどのネットの言論においても同様なのかなと思うんですよね。

もっというと、引用した本の題名でもある「空気」と「世間」というものの影響が多大にあると思っていて、ちょうど佐藤氏の事件を契機にそれに関連する本を探して読んでいたというわけなんですが、たとえば、以下のような文章とか読むと、いろいろ考えさせるものがあるわけです。

従ってわれわれは常に理論的判断の基準と、空気的判断の基準という一種の二重基準のもとに生きているわけである。そして通常われわれが口にするのは理論的判断の基準だが、本当の決断の基準となっているのは「空気が許さない」という空気的判断の基準である。(「空気」と「世間」鴻上尚史 P105より )

なるほど。「理論的判断」と「空気的判断」があって、日本にとっての決断の基準は「空気的」な基準。もちろん、すべてがそうではないと思いますが、「日本のサッカージャーナリズムは瀕死の危機」の理由の一つはそこにあるのかなと思う次第です。もちろん、「受け手」の問題だけでなく「ライター」のほうにも問題はあるのかもしれませんよ。ほら、ちょっと前にオシム氏が日本代表監督になったときに「ライターさんや記者との問答」が話題になったことがありましたが、あれってようは「オシム流のジャーナリズム教育」だったと思うわけで。裏を返せば「日本にはサッカージャーナリズムが無かった」ということであったと思うからです。

こちらから特にコメントはない。皆さんの方からサッカーに対する意見がきちんと出たらコメントするようにしたい。
スポーツジャーナリストとしてのレベルに達するまで、私は辛抱強く待つことにしたい。
http://sportsnavi.yahoo.co.jp/soccer/japan/kaiken/200608/at00010259.html

2006年のオシム氏のコメントから。この頃のオシム会見は今読んでもおもしろいね。ちなみに、私は全てのライターの方が駄目だと思ってないです。中にはジャーナリズム的な思考を持つすばらしいライターさんもいると思いますし、そういう文章もあると思うんですが、結局のところ、それを受け入れる土壌が無いから「ジャーナリズム」が生まれてこないと思うんですよね。卵が先かニワトリが先かという議論が出るかもしれませんが、「ディベート教育」をちゃんとしてないで「空気」が支配する日本で、ジャーナリズムをビジネスで行うのは無理です。

というわけで、「佐藤峰樹氏問題」を、このような「ジャーナリズム」と「空気」という観点から考えてみるのはいかがでしょう? 

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