ボールのないところのでの動きも大切ですが、あるところの動きもね第2弾! 中田英の昔と今

今回も、引き続き「ボールのないところのでの動きも大切ですが、あるところの動きもね」について。まぁこの話題を引きずる意味はあまりないのですが、昨日行われたCLの試合をLIVEで見ることができなかったこともあり引き続き適当に書くことにします。

■中田英の思考が「違う方向」へ向かっていると思うのは気のせい!?

そもそも、この話題を書こうと思ったきっかけは中田英のHPのヒデメールで「ボールのないところでの動きが何よりも重要」と書かれていたのを読んだからでした。実はここ数年感じているんですが、どうも中田英の思考が「少し前と違う方向」へ向かっている気がしているんですよね。そう感じるのは私だけなのかもしれませんが、今回はストレートに「中田英」について思うところをちょろっと書いてみたいと思います。

■中田英が日本代表のエースの座を勝ち取り、セリエAでの成功を収めることができた理由は!?

まず言っておきますと、そもそも中田英は「ボールを持ったときのパフォーマンス」がすばらしく、それで日本代表のエースの座を勝ち取り、セリエAでの成功を収めることができたと思ってます。もちろん昔から「ボールのないところの動き」もすばらしかったと思いますし、それが中田英の持ち味の1つでもあると思いますが、それ以上に「ボールを持ったときのパフォーマンス」がすばらしかったからこそ「日本を代表するサッカー選手」になれたのではないかと言いたいわけです。

古い話で恐縮ですが、例えばフランスW杯出場を決めたジョホールバルでのイラン戦。日本代表を勝利に導いたのは中田英のゴールにつながるパスやシュートでした。城の同点ゴールを生んだ中田英のアシストパスは言うまでもなく「ボールを持ったときのパフォーマンス」でありましたし、岡野の決勝ゴールを導いたのは、中田英のドリブル突破からシュート(イランGKが負傷している手で弾く)という、これまた「ボールを持ったときのパフォーマンス」であったのは言うまでもないところです。そして中田英はフランスW杯を経てセリエAのペルージャへと移籍するわけですが、そのイタリアの地においても、すぐに「ボールを持った時のパフォーマンス」で鮮烈なデビューを果たすことになります。そうです、ユベントスとの開幕戦で2ゴールの大活躍。試合には敗れたものの、この開幕戦でのいきなりのゴールがイタリアサッカー界に強烈なインパクトを残したのは今さら言うまでもないところです。で、そのシーズンにおいてペルージャで33試合に出場して10ゴールというすばらしい「結果」を残し、その後、現ユベントスの監督であるカペッロが率いていたローマへ移籍。ローマではレギュラー争いが厳しく出場機会が減り苦しむものの、2年目のシーズンに、例のリーグ優勝を決定ずけるユベントス戦で大活躍があったわけです。インターセプト&ドリブルからゴール&モンテッラの決勝点を生んだ「強烈なミドルシュート」は今もローマっ子には語り草? 中田英の価値観を高めるのに十分な「ボールがあるところでの」パフォーマンスであったわけです。

要は何が言いたいかと言いますと、中田英は「ボールがあるところでのパフォーマンス」で結果を残し、それが評価されてセリエAやプレミアリーグで生き残れたのではないかと言うことです。それは日本代表でも同様? で、そういう「ボールを持った時のパフォーマンス」の重要性や、ゴールやアシストなどの「結果を残すこと」の重要性を中田英は知っているはずなのに、どうもここ数年のプレイや発言を見ると、そういう「思考」や「意思」というか「哲学」が感じられないのがもどかしいわけですよ。

■中田英の思考や意思や哲学が変化したのか!? それとも表に出してないだけなのか?

まぁ人間変わる部分もあると思いますし、中田英のプレイスタイルやサッカー哲学も昔とは変わったのかもしれません。もしくは、変わってなくて単に「表に出してないだけ」かもしれません。ですが、今の中田英から「ボールのないところの動きが重要」とかいう言葉を聞いてしまうと、なんか「言い訳」みたいに聞こえてしまうんですよね。まぁたぶん本人的にはそんな意識はなく、本当に自然と「ボールのないところの動きが重要」と思っただけなのかもしれませんが、逆にそういう「思考回路」に自然となってしまっているところに「少し違和感」を感じてしまうわけです。

■サッカーの魅力と本質と「ボールを持った時のパフォーマンス」の関係!?

閑話休題。「少林サッカー」という映画を見たことありますでしょうか? 香港のコメディ映画で、「中国拳法とサッカー」を融合させたはちゃめちゃな映画で、サッカー好きの人が真剣に見ると「けしからん、サッカーを冒涜している」って思うような内容なところもあります。で、その映画の中で行われているサッカーは現実には「ありえないサッカー」ではあるわけですが、ただその「ありえないサッカー」の中に実は「サッカーの本質」が語られていると個人的には思っていたりします。映画は黄金の右と呼ばれる主人公がFWで人間業とは思えないシュートを決め、同様に味方のGKはどんなシュートでもキャッチするというような「超設定」が満載で、その映画を見ていると、もうストライカーとGKの「2人だけ」で試合に勝てる感じなわけですが、これって実はサッカーというスポーツの究極の形と言いますか「本質」を表していると思ってしまったわけですよ。結局サッカーって、パスを何本繋ごうがゴールにならなければ0点。ポストに2回当たればゴールとかの合わせ技もなければ、パスを10回繋げば0.5点みたいなこともないし、審判が「美しいプレイ」を評価してそういうプレイを多くしたチームを勝たせるような体操競技のように芸術点なんかもありません。1本しかシュート打たなくてもそれがゴールとなって、あとずっと守って0点で押さえれば勝利となりますし、逆にシュート100本打ってもゴールが決まらなければ勝てないわけです。当たり前のことを書いてますが、要はサッカーというスポーツ(まぁサッカーに限らず球技は全部そうかもしれませんが)は、ゴールという「結果」だけで勝敗が決まる非業なスポーツであるわけで、そこにはピッチ上の選手たちの「連携」や「連動性」や「美しさ」は関係なく、またポゼッション率&シュート数といった「ゴール以外の数字」もほとんど関係ない(確か何人以上退場になると勝負が決まるとかあったような)わけです。

実は私は一時期そのメカニズムというか本質を変に考えてしまい、それに脱力し、その結果サッカーがつまらないって思ってしまったこともあったんです。内容では勝っているのに、結果として試合に負けることもあれば、「美しいサッカー」が「つまらないサッカー」に負けることもあるという不条理さ(?)を何度も体験し、つまらんと思えた時期がありました。で私の場合、ある時、ふと「その不条理さ」こそがサッカーの本質であり魅力であると思うようになり、サッカー熱が再発し今に至っているわけです(笑)。で、そういう私的な「ひねくれた」観点から言わせてもらいますと、サッカーとは究極的には「結果」が重要であり「ボールを持った時のパフォーマンス」がより重要であると言いたいわけです。もちろん「ボールのないところでの動き」も重要ですし、少林サッカーと違って現実では1人でサッカーをするのは不可能であるのは言うまでもないところです。ですが、例えばロナウジーニョという「1人のクラッキ」のボールを持った時のパフォーマンスが、試合の勝敗を決めることがあるというのは穿ったサッカーの見方なんでしょうか? まぁそうはいうものの、チェルシーの試合でグジョンセンなんかが抜群の「オフザボール」の動きを見せてくれると、それ見るだけで楽しかったりする自分がいたり、ランパードの美しい「サイドチャンジパス」に酔いしれる自分もいたり、バルセロナの美しいパス回しに酔いしれる自分がいたりするわけですがね(笑)。

またまた、突っ込みどころ満載の内容となってしまい恐縮ですが、この馬鹿は何を言いたいのかわからん&何をのたまっているんだってことで聞き流していただければ幸いです。

と思ったら、なんとz-netさんが前回の私の「ボール云々~」の戯言をブログで取り上げていただいているではないですか! 本当に恐縮です。私のグダグダ文章よりもZ-netさんの美しくてわかりやすい文章を読んでいただいただければ、サッカーに対する造詣も深くなることと思われます。特に日本代表についての分析はすばらしいので、ぜひ読んでみてください。って今さら言うことでもないかもしれませんが。
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